連載六 「フーテン」の季節 その一


 大分昔の話だ。六十年代の半ば頃、新宿で「フーテン」というのが流行った事があった。

 最初テレビとか週刊誌なんかでその事を知ってはいたが、私自身には何の関係も無いことだと思い込んでいた。ところが…

 私はそのころはやっていた漫画雑誌に作品を載せていた女性の漫画家にファンレターを書いた。そしたら何と返事のハガキが来た。私は嬉しくてそれに又返事を書き、何回か文通したあと、一回会おうじゃないかという事になって彼女の方からO月O日O時に新宿の「風月堂」という喫茶店で待っている、目印に真っ赤なカバーをかけた分厚い本を持っているから、という連絡が来た。

 そして当日、私は彼女のことを勝手にすごい年上の人だと思い込んでいたので、失礼があってはならないと思っていつもはジーンズ姿なのに一張羅の黒いタイトスカート、勿論ストッキング、黒いパンプス、そして糊の利いた白いブラウスといういでたちで新宿へ向かった。

「風月堂」という喫茶店の場所が良く解らなかったので交番で道を聞いたのだが、その時のお巡りさんの態度があまりにも悪かったのが不思議だった。

 全て後で解ったのだけれど、その時の新宿の「風月堂」というのはフーテンのメッカであり溜まり場だったのだ。そして私とそこで待ち合わせをした女流漫画家はその時十八才、十九才の私より一つ年下であり、そもそも何で私と会いたいと思ったかというと、その理由…彼女は勝手に私のことをフーテンだと思い込んでいたのだ。私はおおいに面食らったけれど年が近いせいかすぐに彼女と意気投合、彼女があまりにもフーテンに興味をもって、かつ憧れているのを知って結局二人で「フーテン」のような格好をしてフーテンがいっぱいいる所に出かけて遊ぼう、という事になった。私達二人はあくまでもそうやってフーテン見物のつもりだったけれど、傍から見れば何のことは無いフーテンそのものにしか見えなかっただろう。現にそれらしい格好をして電車に乗っていた時、「あれ、フーテンだよ」とか言って指差されると、なんかすごく嬉しかったのを覚えている。

 その後に来る「ヒッピームーブメント」のことを私は良く知らないけれど、フーテンはそれとは大分違っていたように思う。まず服装が違う。ヒッピーのようにカラフルな服を着ていた人はいなかった。みんな黒、紺、モスグリーンなどの抑えた色の服を着て、タイトでスリムなジーンズ(黒も多かった)を穿き、なぜか真夏でも長袖のセーターを着て、大きな茶色い紙袋にいろんな物を入れてそれを小脇に抱えて歩くのだ。そしてヒッピーの愛した音楽がロックなのに対してフーテンは主にモダンジャズ。そして踊る時はジェームスブラウンなどを筆頭とするR&B。ヒッピームーブメントが世界的な流行だったのに対してフーテンは日本のそれも新宿だけで流行っていたようだ。

 フーテンの人たちは、特に男の人は髪の毛が長ければ長いほど尊敬されていた。そして着ている服がボロければボロいほど尊敬されていた。だから物凄い長髪で継ぎはぎだらけの服を着ていた人はフーテン界のスターとして崇められていた。

 その頃の新宿は今の歌舞伎町に代表されるようなケバくてヤバイ街では決して無く、なんだかおっとりとした街だった。

 私とその漫画家はしょっちゅう新宿で待ち合わせて踊りに行ったり、その頃すごくはやっていた何軒かのジャズ喫茶にも出かけていった。正直その頃の私にはモダンジャズというのは苦手でただの騒音にしか聞こえなかったけれど彼女があまりにもそれを好んだため仕方なく我慢して聞いていた。

 しかし私の心を捉えたのはR&B、そしてそれで踊ることだった。今で言うディスコのような物がいっぱいあって、最初の頃彼女と踊りにいっていたのだけれど私はだんだん一人でも、そして毎日のように踊りに行くようになった。私は激しくそれにのめりこんだ。その結果何軒かのディスコでは木戸御免、つまりタダで入れるようになった。さらにそればかりではなく飲み物、つまりコーラとかジュースなどはその店で私を見かけた一種ファンのような人達が「これ飲んで!」という感じで貢いでくれた。さらにタバコも吸いたくなったら吸っている人のタバコを取り上げて吸った。無論怒る人などいなかった。なぜなら私はその辺でなぜかスターだったのだ。私からタバコを奪われた人たちは怒るどころかむしろ光栄に思っていたのだろう。そして私が踊り始めるとそこに居た全員が踊るのを止めて私を取り囲んだ輪を作って一人踊る私を見物するのだった。なぜかそこまでいってしまったのだ。そんな風に私はあくまでもフーテン見物のつもりが、フーテンそのものに、第三者的に見たらなってしまっていたのかもしれない。基本的に悪ふざけの大好きな私は自分のことを中国人だと言って名前を「林道静…リンタオチン」と名乗って遊び回っていた。その頃のディスコの店内は落書きだらけ、それもやはり時代のせいなのだろう、「米帝国主義打倒」というようなものが中心であとはいろんなセクトの主張と他のセクトへの悪口、ほとんどそればっかりだった。噂によるとお客が少ない店のオーナーが夜中に一人で自分の店に落書きをしているというような話も聞いた。

 踊りにのめりこんでいた私はフーテンのメッカ「風月堂」の中で(そこは一応クラシック音楽を流している高級な喫茶店だった)大声で「マンボナンバー5」を歌いながら踊ったら追い出された挙句出入り禁止になってしまった。しかしそんな事でめげる私ではなかった。背が高く痩せていた私は今度は自分を男だと言って、男のフーテンとして遊び始めたのだ。    

 この話次回へ続く


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